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ダウン・トゥー・ザ・ボーンはプロデューサー、スチュアート・ウェイドを中心に1995年末から始動したグルーヴ・プロジェクトである。当時、スチュアートはシンク・トゥワイスというUKソウルユニットに参加しており、同ユニットの「ジョイ・イズ・フリー」という楽曲のリミックスを手がけたのが、ダウン・トゥー・ザ・ボーンの本格的な活動のきっかけになった。
変わった名前は、スチュアートが当時通っていたロンドンのクラブ「トゥー・ザ・ボーン」から拝借した。このクラブではサイモン・ダンモア、ボブ・ジョーンズ、マーク・ウェブスター、ボブ・マスターといった一流のDJ達がプレイしていた。スチュアートはロンドンの主立ったクラブに出入りするようになり、クラブでよくプレイされるようなグルーヴ感溢れる音楽を自分自身の手で手がけてみたいと思うようになっていた。ファンク・グルーヴは決して過去のものではなく、まだまだ人々を魅了出来るということ、そしてなによりスチュアートがプロジェクトを始めるに当たって、大きく影響を受けた多くのアーティスト達に感謝と敬意の念を払いたいと思っていたのだ。
スチュアートはシンク・トゥワイスのキーボード・プレイヤーであったサイモン・グリーナウェイと二人で楽曲制作を始める。記念すべき1曲目は「ステートン・アイランド・グルーヴ」と名付けられ、12インチでシングルカットされた。このシングルが大ヒットを記録。多くのDJ達がクラブやラジオでプレイし、数多くの雑誌の華々しいレビューを飾った。間もなくスチュアートは2枚目のシングルの制作に取りかかり、デビュー・アルバムの準備に乗り出す。しかし、諸事情により2曲のシングルで活動を共にしたサイモンはアルバムの制作に携われなくなってしまう。スチュアートはサイモンと袂を分かち、一からプロジェクトに参加してくれるミュージシャン候補を探さなくてはならなかった。やがてリチャード・サドラー、リチャード・ワージェント、ニール・コウリー、ティム・ベストといった才能あふれるミュージシャン達と出会いを果たし、アルバムの制作を開始した。
ファースト・アルバム「フロム・マンハッタン・トゥー・ステイテン」はスチュアートが多くの影響を受けたアメリカに敬意を払い名付けられた。アルバムはアメリカでの発売が決まっていたが、スチュアートはあまり大きな期待をしていなかった。しかし、彼の期待は良い方向に裏切られる。なんと当時のラジオ・シーンを代表する二人の著名DJ、ブレーク・ローレンスとスティーブ・ウィリアムソンからダウン・トゥー・ザ・ボーンの楽曲に多くのリスナーからものすごい反応が来ている!というニュースが舞い込んだのだ。当時のラジオ・シーンが停滞していたのは火を見るよりも明らかで、リスナー達は新しい音楽を渇望していた。ダウン・トゥー・ザ・ボーンは正にそんなタイミングにぴったりだった。ラジオ・シーンからの後押しを受けて、ファースト・アルバム、「フロム・マンハッタン・トゥー・ステイテン」はビルボード・チャートのジャズ部門の2位にまで上り詰める。
ファースト・アルバムの成功を受け、1998年には2枚目の「アーバン・グルーヴス」をリリース。更に2000年には「スプレッド・ザ・ワード」をリリースした。スチュアートは2枚のリリースだけに満足せず、2000年にザ・ニュー・ジャズ・ハスラーズという新しいプロジェクト名義でのリリースも行なった。2002年にはヴァーブ・レコードと契約し、4枚目のオリジナル・フル・アルバム「クレイジー・バイブス&シングス」をリリースした。ヴァーブ・レコードから1枚のアルバムをリリースした後、スチュアートはブルー・ノート傘下のナラダ・レコードへ移籍してしまう。ナラダでは「セラー・ファンク」と「スプレッド・ラブ・ライク・ワイルドファイヤー」の「スーパーチャージド」の3枚のアルバムをリリースし、更に2008年には待望の来日公演も果たし、ステージ上でその存在感を見せつけてくれた。 |