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REVIEW


soso / TENTH STREET AND CLARENCE

君は君の神に対しからっぽの約束を口にすることで、生きることの赦しを受ける。明日も。

 さしあたって主題とは全く関係のない方向から話を進めていくと、ずっと昔、もちろん俺たちが生まれる遥か以前のこと、もしかしたら皆のお父さんやお母さんと同級生だったりするかもしれないけれど、庄司薫っていう男の子がいたんだ。彼はその時、18歳ぽっちで、ベトナムと激動の全共闘運動の時代の中で生きることを余儀なくされたちょっと可哀想な、でも生きる時代を選べない当たり前のこの世界の殉教者としての生を必死で掴み取ろうともがいていた。彼は自分を取り囲む世界を見渡しては苦悩する。大好きな女の子を守るために葛藤する。友人を救うために行動する。誰かを、何かを、力強く支えるための方法論を見つけ出そうとする。夢破れたり、人の死と対峙したり、道彷徨ったり、彼が体験するそんなバリケードみたいな出来事の数々は誰もがぶち破っていかざるを得ないものだけれど、庄司くんという奴は兎に角犬死なんてしてたまるかとばかりに、揺らいでもブレることのない信念の芯をよすがに必死で抵抗したんだ。人間が最後には滅びゆくものとして生きなくてはならない悲しい存在であるとしても、それらの虚しさや寂しさから目を逸らさずに、きっちりと見すえていこうという意志。40年近くも前のことなので、これらは全て過去形で語られるべき話だけれど、俺の中で彼のとった行動の全ては現在進行形なんだ。ホールデン・コールフィールドの生き様に背を向け、クリアな視点と明晰な頭脳と勇気でもって世界の美しさに優しく光を当てようともがき続ける。世界の醜さを暴くホールデンと、その美しさを見つめる庄司くん。二人の悩める若者は「若さ」という点で完全なるコインの表裏であるけれど、「醜さ」と「美しさ」のどちらが欠けても成立しないのが、俺たちが今いるこの世界というわけなんだ。

 爆音と粉塵があり、悲鳴と嬌声があり、飢餓と感染があり、憎悪と信仰があり、愛と性交があり、虐殺と生誕があり、歴史と個人史があり、太陽と月があり、大地と海がある。それが世界だ。俺たちの生きる世界の姿だ。そして、これらは決してこの舞台上から姿を消すことのないものであり、全てひっくるめて先人が規定するところの「本当のこと」ないしは「ほんとのこと」でもある(誰の言かは敢えて明記しない)。優れた表現はすべからくその探求と追及へと向かう、というのは当然の話だ。そして、本稿の主役であるsosoが作り上げた『Tenth Street And Clarence』もまた、自身と世界を描いた作品群に新たに追加された一枚である。自分という一人の人間とそれを取り巻く世界との関係性の発露には、様々な表現が存在する。例えば、人間存在の起源にまつわる哲学的な問題に光を当てる、抱き続けた世界への違和を表明する、世界が陥っている状況を告発する、なんてものがぱっと思いつくけれども、sosoが今作で採用した手法とはマクロな視点ではなく、どこまでもミクロでもって世界を描ききることだ。

 「僕はもっとも意味があって、もっとも説得力のあるリリックは個人的で具体的なことに根ざしているんだと思う。そして僕は家族や歴史や社会環境などの自分の経験と接続している糸をほどくアルバムを作ろうとしていたんだ。」

  sosoはhueのページに公開中のインタビューにてこのように語っている。sosoと名乗る以前の、生身のTroy Gronsdahlとして生きた時間を、生み出したsosoというフィルターを通して描き直す作業。私的体験を解体し、その物語から意味を剥奪し、別の言葉に置換する。結果、ここに収められたインストナンバーを除く9曲のリリックは、抽象的な表現に満ちており、暗喩や直喩に溢れた極めてメタフォリカルなものとなっている。対訳を読めば判るとおり、幾つかの類型化が可能なヒップホップのリリック(俺ネタ・金ネタ・女ネタetc)において、これは異色以外の何物でもない。sosoは前作同様、今作もたった一人でアルバムを作り上げた。音と言葉だけでなく、ビジュアルも含め全てがsosoの統制下に置かれている。リリシストであり、トラックメイカーであり、ビジュアルメイカーでもある彼だからこその所以だ。つまり、それら全てに何がしかの意味が付与されていると考えて良い。言葉は音によってイメージが補填され、音は言葉によって表現力が増幅され、その二つから成る物語はビジュアルによって方向付けされる。まさに三位一体の相互補完関係がそこにはある。

 ジャケットには朝靄にけむる家の裏庭と思しき場所で、エメラルドグリーンのワンピースを身に纏った女性の左腕と下半身が映っている。早朝、家族が就眠中にこっそりと家を抜け出そうと試みるのか。愛しのあの人のもとへ? あらゆる解釈を許容し、見る人の恣意に委ねられる今作の「顔」。グリーン系の色味で統一された色相。モノクロに徹底し、ポップではあるけれど無機質だったファーストアルバム『Birthday Songs』のジャケットとは、対極へとその位相を異にしている。前作とは、sosoという存在がこの世界に産み落とされたことを祝う生誕祭でもあった。そして今作『Tenth Street And Clarence』は、個人史を紐解きながら、その意識を歴史や世界にまで広げていくという試みが随所で繰り広げられている。それだけでなく、これはあくまで俺の譫妄であると但し書きを入れておくけれど、「誕生」あるいは「新生」というテーマは今回も引き続き直截的でないにしろ語られている、と。

 アルバムは"Goose Hunter Pt1"にて幕を明ける。おそらく早朝の湖畔でのフィールド・レコーディング。遠くから聴こえ次第にその音が大きくなる、何十羽もの鳥の鳴き声。だが、ここで止まっていてはいけない。隘路から抜け出すために、思考の道筋を一つずらしてみよう。おそらくsosoの企みは既にこの時点から始まっている。これらの声の主は、北米大陸に数多く生息するオオカナダガンだ。繁殖地としてカナダに渡来してくることの多いこの種は鳴きながら空を飛ぶのが特徴。そのカナダガンの鳴き声が重く響いているということは、季節は冬の終わりから春の始まりにかけてであることを示している。この楽曲では、侘しさの募るキーボードとアコースティック・ギターの音色に耳を奪われてしまうため、つい真冬のイメージを抱いてしまいがちになるが、そうではないのだ。長かった冬が終わりを告げ眠っていた緑が息吹を始める、そんな新たな季節の始まりを密やかに告げている。一転して"Goose Hunter Pt2"。こちらはより冬に近い唄であろう。序盤に繰り返される"snow cover up"や、2分40秒を過ぎて現れる"adjust the voice and sleep"というフレーズのボイスサンプルは、ハンター側の視点から出たフレーズだと想像させられる。「snow cover up」(Goose Huntingの際に着用するパーカーのこと)を身に纏い、銃を構える。獲物を捕捉し、神経を研ぎ澄ませる。自らの息を潜め気配を消し周囲と同化し、一発の弾丸でしとめるべく弾き金を引く。ブシュ。凶弾の射手はおそらく無表情で仕事を終える。ワン・ショット、ワン・キル。アコースティック・ギターとヴァイオリンによって、アルバム中、最もメランコリックなメロディが奏でられるこの曲は、どこか葬送行進曲のごとき様相も呈している(とはいえPt1も充分なくらいメランコリックなんだけれど)。つまり、アルバムの先行7インチとして発売されたこの"Goose Hunter Pt1&2"は、「誕生」と「死」という相反する二つの要素をモチーフとして、表と裏に刻み込まれた盤なのではないだろうか。7インチのスリーブには、数羽のカナダガンのイラストがあしらわれている。これらの2曲によるイメージ喚起力をして、サスカトゥーンを代表する画家Tamara Bondの絵画のようだという評もあったが、まさに音楽の表現可能領域を広げた楽曲であろう。それがヒップホップの側から提出されたことに新しさがあった。

 続く、不穏なキーボードのメロディで幕を開けるM2"Finding Out About a Big Pile of Stones"は、彼の少年時代の回想録だ。のっけから宗教と信仰に関するトピックをもってきた事に着目したい。この曲のリリックから推察するに、Troy Gronsdahlはカナダでは多数派を占めるプロテスタントであるのだろう。ここでは、VBS(Vacation Bible Schoolの略で、夏休み中の子供たちが集まっては聖書の勉強をしたり一緒に遊んだりすること)での記憶が語られる。Troy少年は、VBSに参加しながらもどこか馴染めない気分でいたようだ。そんな少年期の記憶の前に呟かれる言葉が、「この身体には、神のように特別な力なんてない」という独白で幕を開けるセンテンスである。人間は神の姿を模り造られ、選ばれた種であることの幸福を享受しながら
も神と同じではないことを常に意識して生きなくてはいけない。キリスト教が規定する、神の意志の代行者としての生。そんな絶対的存在に対して彼は「無数のからっぽの約束を口にする」と言う。それは不信の表れなのか、はたまたニヒリズムの空気感染のごとき漠然とした虚無を表現するフレーズなのか? 最後にリフレインする「家には帰れない」の「家」とは何を指しているのか?その主語である「You」とは誰のことなのか?様々な謎を含ませながら、カナダの原住民であるアルゴンキン・インディアンと移民である自分たちの祖先に対する言及ともとれるボイスサンプルが響くアウトロに耳を傾けよう。そこに光となるヒントは隠されている。「You」とは自分自身と、ヨーロッパからの移民(つまり自分たちの祖先)によって追い出されたインディアンたちを指すダブル・ミーニングとなっているのではないか。「家」とは、最小共同体であり最大共同体でもある、と。個から家族へ、そして部族へ、民族へ。宗教、支配と被支配、祈りの記憶、歴史と個人史、迫害と発展。この曲がアルバム全体のトーンを決定付けていることは間違いない。

 M3"Returning to An Empty Home"。寂静そのものを描きだすアコースティック・ギターのアルペジオ。前曲の最後で「お前は家に帰ることができない」と呟いた彼は、幾ばくかの時間が経過した後、帰る家を得た。けれども、そこは主の帰りを待つ存在などいないからっぽの家であり、暖炉に火さえも点っていない状況下、カナダの冬の寒さが身体を突き刺す。それに耐えられなくなった彼はどうしてもこう呟いてしまう。「なにもない」。それはナダ(無)へと至る境地。『清潔で、とても明るいところ』という掌編で、ヘミングウェイが登場人物に連呼させるナダだ。

 「自分は何を恐れているのだろう?いや、不安とか恐怖が自分をむしばんでいるのではない。無<ナダ>というやつなのだ、おれにとりついているのは。この世はすべて、無<ナダ>であって、人間もまた、無<ナダ>、なんだ。要するにそれだけのことだから、光、がありさえすればいい。それに、ある種の清潔さと秩序が。無<ナダ>、のなかで生きながらそれと気づかない者もいるが、おれは気づいている。無<ナダ>にまします我らが無<ナダ>よ。」
   
 ナダとは翻案すればNothingの哲学であり、その「何にもなさ」から目を逸らさないこと、気づかないでいるよりもそれに気づいたうえで引き受けて生きることの重要性を訴える。暗闇と対峙せよ。孤独という怪物と向き合え。「僕は自分の存在を、何がいるかも分からない暗闇の隅に知らしめないといけないような気がした」という宣言は、"This Is My Body,This Is My Blood"というコーラスによる決意表明へと繋がる。「これが僕の身体だ。そして流れる血は僕のものだ」。それによって浮き立ってくる、「私」という個の存在。代替不可能なものとしての肉体。その叫びには、アメリカのような「るつぼ」ではなく「人種のモザイク」と表現されるカナダ特有の意味合いも込められているのだろう。多民族国家であり、多文化主義であるカナダという国で生まれ育つこと。それによって享受する恩恵と弊害まで想像してしまう。それにしても今作のリリックには、直接的にしろ間接的にしろ「肉体」について言及したフレーズが多い。M4"Your Skin Brown From the Sun"などはタイトルからしてその通りである。愛する人との関係性と回想がメロウなピアノの旋律とともに語られていく。手探り状態の中で築き上げていく互いの信頼関係、その中で生まれる葛藤。


 タイトルが非常に印象的なM5" Waiting Under a Wax Paper Sky"は、sosoの十八番とでも言うべきアコースティック・ギターによるイントロから始まり、チェロとサックスが繰り広げるインプロヴィゼーションさながらの応酬に耳が行く。サンプルで作られた音にここまで緊張感が漲っていることに驚いてしまうが、彼のプロデューサーとしての成長が刻まれた楽曲でもある。一方でリリックを見てみると、その抽象度は収録楽曲中で群を抜いている。もはやリリックの域を超えて、ソネットに近い場所で書かれている、額面どおりに受け取られることを拒否する言葉の数々。この曲(に限ったことではないけれど)の端々に散りばめられたそれらから見えてくるものとは一体何なのだろうか。例えば顕著な例として挙げてみるなら、この曲中だけでも、樹木や花の名前が5種も登場する。順に、「カンゾウ」「ガマ」「カバの木」「黒ポプラ」「シバムギ」がそうだ。この中で、明確な意図の下で使用されているのは、おそらく「カバの木」と「黒ポプラ」だ。この二つに託されたもの。それはカナダという大陸における民族の歴史そのもの。「カバの木」とは、カナダ大陸の先住民であったアルゴンキン・インディアンを投影させたものである。カバの木を原材料として製作されるものとは、「カヌー」であり、それこそはインディアンの発明した究極の移動手段。そう、アルゴンキン族の多くが住居としていた場所は、良質なカバの木に囲まれ、そこで作られた多種多様なカヌーによって幾つもの部族は発展していった。対する「ポプラ」、これはもう言わずと知れたキリストが磔にされる十字架の材料となった樹木である。キリスト自身の希望により、ポプラが指定されたことは有名だろう。更に踏み込んだ邪推は難しいが、カナダの歴史に関係があるこの二つの樹木が併記されていることに意味がないわけがない。

 ラスト3曲は曲間なくそれぞれが繋がっているので、一つの組曲を成していると考えて良い。sosoの作る楽曲にしては珍しい、フルートの音色を大胆に導入したM10"With Morning,Relief"は、軽快に跳ねるビートと高揚をもたらすストリングスの展開が耳を奪う。本当に彼は今作において、鍵盤金木管弦を問わないインストゥルメンタルを自在に操る魔術師としての個性を確固たるものとした。下半期にリリース予定のDJ Kutdownとのインストプロジェクト(sosoがメロディ/アレンジ担当、Kutdownがビートプログラム担当という分業制)だってこれは相当に美しいものになっているだろうと思わせてくれるし、何よりもサードアルバムにて構想されている"Neli Young Meets Portishead"という完全ボーカルアルバムでは、生楽器による編曲に着手してもらいたいと願ってやまない。暗喩としての太陽賛歌であったMIの幕が下り、メトロノームがリズムを刻み始める。それは直ぐにM11"Sweet Euphemisms"のイントロへと移り、やがて、全てを浄化させる役割を果たすあのピアノのメロディが流れてくる。メトロノームはすぐさま心臓の鼓動のように優しく規則的なビートへと変化し、そのピアノを彩る。カナダの歴史上のわだかまりを、DVの父親に脅える彼女とその家族の過去を(M9のリリックだ)、たった一人で虚無を抱え孤独感に苛まされていたかつての日々を、何もかもを受け止めて洗い流してくれるかのような大きな優しさを湛えた美しいフレーズ。そして呟くように言葉を吐き続けるsosoがいる。

 おそらくは「ライフ・パートナー」であるジェニファーに捧げられたこの曲のリリックは、しかし、タイトルからして「優しい婉曲表現」というだけあって、ここでも遠回しな言葉の繋ぎ方がされている。「カブの根からは血を採ることはできない。石から水を採ることはできない」というフックのフレーズなんて、その二つが転じた格言としての「不可能なことをすることはできない」なんて意味以上のものがあると疑ってかかってしまう。樹木や植物の固有名詞を印象的に用いているsosoのことなので、何か裏があるのではとこちらは隠された真意を読み取ろうとする。すると目につくのは「石」という単語だ。そういえば、MAでもタイトルの中に「石」を使ったり、そのリリックの中で「石を拾う男」を登場させたり、なにかと固執している。こういった要素をこれまた強引にキリスト教へと結びつけてしまうならば、どうしたって「ヨハネの福音書8章7節」から、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というキリストの言が浮かんでしまう。姦通の罪を犯した女性を糾弾し、取り囲む群衆。彼らは通りがかったキリストを問い詰める。姦通を犯した女は、石で殺してしまえばいいんですよね?モーゼの規律ではそうなっていますよ。しかし、これはキリストを告発しようとした群衆のリーダーによる自演であったのだが、その中でキリストは上記のように切り返して彼らの思惑を退けたのだという。では、リリックの中で頻出する「石」とはなんだろう。「罪」の象徴なのか、それとも・・・。しかし、このような下種の勘繰りは、強靭な肯定の言葉の前では余りにも無力だ。

 "Everything Is Fine"

 全ては繰り返されるこの一節に収斂されていく。かつて、ジェニファーと出会う以前、Troy青年は誰もいない部屋で一人、「なにもない」と呟いた。暗闇と向き合い絶望を噛み締めた。今でもTenth Streetの家に一人で住んでいるようだが、あの頃と大きく異なるのは、ジェニファーの存在が彼を支えているということ。かつてよりもさらに大きくなった愛する人の存在が、揺ぎ無い信頼が、現在のTroy Gronsdahlをしっかりと両の足で立たせている。前を見据えさせている。「なにもかも大丈夫」なんて、全肯定の言葉を口にすることさえ厭わない。ジェニファーという存在を得た今の彼には、世界という「ナダ」の中で目に映る光は輝きを増していくばかりなのだろう。

 しかし。"my god!"というサンプル音声が響き、雲間が切れ光が差し込むかのようなホルンの調べの後、ピアノの美しい旋律も呟かれる肯定の言葉も、太く重いビートの弾丸によって無残に残酷なまでに撃ち抜かれていく。ブレイクコアのように激しいビートによる、美旋律の蹂躙。それはまるで、一寸先は闇の如き、何が起こるかわからない人生そのものを象徴しているかのよう。あるいは、日常と地続きの場所で殺戮が今日も起きているという暗示なのか。それでも美は無情なる暴力に対し屈しない。稲光轟く嵐の中を必死に飛ぶ鳥のように、旋律はビートに対し抵抗していく。美しさとは、頭を踏みつけられても致命傷を負わされても、決して光を失わない生命力のことだ。ゆえにピアノによるメロディはビートの向こう側から鳴り続ける。その美しさはさらに強度を高めていく。

 やがて嵐は過ぎ去って雨も上がり、またいつもの朝が訪れる。目覚めた鳥たちの囀りが遠くから聞こえる。金属の軋む音も。想像が膨らむ。この軋音を俺はブランコが揺れる際に発する音と解釈したんだ。こうして、それぞれがそれぞれの情景を描くだろう最終曲M12"Hungover for Three Days Straight (Don't Matter)"は、そんな日常の始まりを連想させるところから始まる。だが、sosoは最後までメタフォリカルな詩作を崩さない。最低限の押韻で、断片的なイメージの描写を積み重ねていく。最後の最後に選ばれたシーンは、家族に関するトピックだった。勿論、直接的なエピソードが描かれているわけではない。あくまでも寓意性漂わせる言葉の並びの中で家族的ワードが散りばめられる。そして、ここにも「石」が登場するんだ(「奇妙な石組みのなかで、家族の名前を綴っている父の姿を眺めていた」というライン)。またしても推察の範疇を出ないが、これはサスカチュワン州南部で多数発見された、紀元前3000年頃に先住民であるワヌスケウィン族が作った遺跡である石の輪を示唆しているのだろう。他にも、最後に出てくる「チョークチェリー」は、古来よりインディアンの貴重な保存食として重宝されてきたわけで、こうして先住民に対する敬意の念がそこかしこに表れているのは決して偶然の一言で済ますべきではない。以下は蛇足であり単なる邪推であるが、今作を締め括る最後の言葉" I'm hungover again, for the third day straight."の"third day"が、キリストが十字架にかけられ、死んで三日目に復活した(he suffered death and was buried. On the Third Day he rose again.)という数字上の一致を考えてしまうくらいだ。

 リリース直前、彼のレーベルにアップされた今作を説明するテキストで、sosoはこのように語っている。

 "A narrative project navigating through family and social histories, landscape and weather."

 そう、彼は最初からこのアルバムの中で起こっていること全てを端的に語っていた。家族、カナダの社会史、風景と天候によって語られる物語であると。そして、何よりも大切な存在が上記には含まれていないが、愛する人との豊穣なる未来さえ予感させる物語、なのだ。彼が生きてきた時間、過ごした場所、愛してきた人々を描ききることで、自分と世界との関係性を明確にしている。カナダという、大自然と数多の民族の調和の下で成立している国から生まれるべくして生まれた作品。日本同様はっきりとした四季があるカナダの気候が、冬や春や夏の折々の情景を導き出す。トラックは、前作において特徴的だった「枯れ」の要素を減少させ、より美を求め穏やかさを湛えた音色へと変化した。例えば、簡潔に前作のモードを「夜」と規定するならば、今作はその対称としての「朝」となるだろうか。楽器と旋律による音のトーンだけではない。冒頭、オオカナダガンが飛来する朝靄にけむる湖面、そして終曲のクロウタドリが囀る朝という二つのフィールドレコーディングによってもムードの統一がなされているのだ。これらの「朝」によって婉曲的に示されるものは、「始まり」や「新生」というキーワードだ。このアルバムを聴き終えた人が、そこに軽やかさや希望めいたものの萌芽を感じ取ったとしたら、それはこのような理由からかもしれない。アルバムを通じ、sosoことTroy Gronsdahlの目に映る世界を一部分で共有した果てに、俺が連想したものは以下のようなフレーズだ。

"The world is a fine place and worth fighting for."

  アーネスト・ヘミングウェイが『誰がために鐘は鳴る』の中で記した言葉。この世界は素晴らしく闘うに値する場所だ、と。Troy Gronsdahlは、口が裂けたってそんなことは言わないけれど、今日も酔っ払って二日酔いの頭を抱えながら、ジェニファーに電話したり、本業のデザインをこなしたり、美しいメロディを持った楽曲を作ったりしながら、日々の戦いを続けていくのだろう。長い時間の流れの中で続いていく人間の生。人間は、ひっくり返すことができない砂時計を背負って生きているようなもので、砂はどんどん溜まっていって重さを増していく。砂一粒が1分や1秒といった時間と引き換えになる。それを、「背負う物の大きさ」と解釈してがむしゃらに努力する人もいる。砂なんて落ちてこない、そんなもの背負ってもいないというフリをして、軽やかに生きようとする人もいる。それが生だ。そして、上記の言葉に続くものを想像するなら、人それぞれであるだろうけれど、やはり「あなたと一緒に」というフレーズだろう。共に戦うこと、すなわち、共に生きること。そして、世界とそこに生きる人たちに対してのやさしい眼差しを備え持つこと。例えば、庄司くんが幼馴染の由美ちゃんという女の子と世界に対して決意したことは、それが端緒となってくれるだろう。長いけれど重要なので全文引用。

 「ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。そのなかでは、この由美のやつがもうなにも気をつかったり心配したり嵐を怖れたりなんかしないで、無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。ぼくは森のような男になろう、たくましくて静かな大きな木のいっぱいはえた森みたいな男に。そのなかでは美しい金色の木もれ陽が静かにきらめいていて、みんながやさしい気持ちになってお花を摘んだり動物とふざけたりお弁当をひろげたり笑ったり歌ったりできるような、そんなのびやかで力強い素直な森のような男になろう。そして、ちょうど戦い疲れた戦士たちがふと海の匂い森の香りを懐かしんだりするように、この大きな世界の戦場で戦いに疲れ傷つきふと何もかも空しくなった人たちが、何故とはなしにぼくのことをふっと思いうかべたりして、そしてなんとはなしに微笑んだりおしゃべりしたり散歩したりしたくなるような、そんな、そんな男になろう・・・・。」<庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(中公文庫)P.161>

 青臭い理想論が振りかざされただけのように映るだろうか。40年近くも前だからこそ真摯に届いた言葉として捉えられるのだろうか。だとしたら、俺は残念でならないが、彼の理念からはたくさんの男の子の哲学と世界を優しく見る方法のヒントが汲み取れるっていうのに。

 一つだけ残った疑問は、最後に鮮やかに解き明かされる。それは今作におけるアートディレクションの基調ともなった色について。ジャケットに映る女性が身に纏ったエメラルドの色が意味するものとは、一体。Troy Grondsdahlは、ライフ・パートナーのジェニファーにエメラルド・グリーンの衣装を着せた。そして、エメラルドグリーンとは古代ローマにおいて愛と美の女神ビーナスにささげられた色であり、美しさの、永遠の愛を示す色でもある。これは、sosoがジェニファーに捧げる少々どころか大いに婉曲的な永遠の愛の告白でもあるのだ。この素晴らしい世界でともに闘っていこうよ、ってね。"Sweet Euphemisms"ってこういうことなんだよね。

 蛇足ながら、最後に庄司くんの戦友である小林の言葉を紹介してこのテキストを締め括る。「白鳥の歌なんか聞こえない」からの一節で、これもまた世界を優しく見るための方法論の一つだ。

 「おれは、一人の女の子を見て、きれいだな、って思ったんだ。きれいだな、って。そして、それだけでもう十分だと思ったんだよ。そういう瞬間ってのがあるものなんだ。おそらくは、女の子でなくてもいい。ほんのささいなこと、ほんのちょっとしたことで、この世界のすべてに対して柔らかに心を開くような時、そんな時があるんだよ・・・・。」<「白鳥の歌なんか聞こえない」P.203>
(大崎暢平)

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